選択しないことに慣れてしまった僕たち

バスが速度を落とすのに気付いて目が覚めた。数人の乗客が降りる準備をし、バスは雨のターミナルに滑り込んでいく。窓の外では、鼻筋の通った男の子が両親と抱き合っている。名残を惜しむように何度もお別れを告げ、ステップを上がって前の席に座った。窓越しに手を振りながら、今度は電話をつないでさよならを言っている。

昨日まで一緒だった女の子と別れて、僕は一人で長距離バスに乗っていた。カッパドキアへのバスで出会ったパキスタン人エンジニアの女の子だ。予約していたホステルがたまたま一緒だったから、2、3日ともに過ごした。

彼女はとてもパワーのある人だった。自分なりのロジックで何かを選択し、やると決めたことにはすごい勢いで突き進んでいった。優柔不断な僕はことあるごとに「あなたはどうしたいの?」と凄まれて、どちらも捨てがたいと考え込む。その都度彼女はこう返すのだ。「したいのしたくないの? イエスオアノー!?」

思えば僕は何かを選択することをしょっちゅう放棄してきた。飲みの席では何も考えずにビールを頼むし、帰り道は乗換案内まかせだし、夕飯の希望を聞かれても「なんでもいい」とばかり言っていた(実家にいたころの話だ)。どうやら選択しない選択ばかりしていると、大切な場面でも自分が何をしたいのか分からなくなってしまうらしい。

台風みたいな彼女と過ごす時間はあっという間に過ぎ、彼女はスーフィズム発祥の地コンヤに一人向かっていった。直前まで「カッパドキア最高。風が止んで気球に乗れるまでずっとここにいたい」と笑っていたのに、コンヤのうわさを聞いた途端「私にとってはバルーンよりもコンヤの方がよほど大切なの」と真面目な顔をして言ってのけた。

同じホステルに泊まっていた中南米のおじさんは、彼女がこの町を去ったと聞いてため息をついた。「行っちゃったのか。静かになるね」。僕のベッドをのぞき込んで「寂しいかい?」と聞いてきたので、「んなアホな!せいせいですわ!」と言ってやった。でももちろん冗談だ。シャツの背中に穴が開いているような気分だった。カッパドキアの旅が終わったような気がした。

翌日、僕はバスターミナルで次の町への切符を買った。エーゲ海の観光地イズミルに行こうか、トルコ一の美食の街ガズィアンテプに行こうか、それとも彼女が行ったスーフィズム発祥の地コンヤに行こうか。考え込む僕をバス会社のお兄さんは笑って待ってくれた。

彼女の真似をしてコンヤに行こうかとも思ったけど、「あなたはどこに行きたいの?」という彼女の声が聴こえるような気がした。僕はガズィアンテプへの切符を買った。これは僕の旅だ。誰かが代わりに選んでくれることはない。

南部に向かうバスは雨の中を走っている。バスが進むにつれて、川は水量を増し、車窓には緑が茂る。さっき乗り込んできた男の子はまだ誰かと電話している。この人も何かの選択をして、このバスに乗り込んだのだろうか。

ベンガル湾に沈む夕日は毎日とても大きくて、その熱量と似た何かに僕は突き動かされていた

22歳の誕生日をクアラルンプールの安宿で回らない扇風機に悪態をつきながら過ごした1ヶ月後、僕はミャンマー西部のシットウェという町に寝泊まりして、ロヒンギャの避難民キャンプまで毎日バイクで通っていた。

町でレストランを経営している一家の気のいい次男坊から、毎朝バイクを借りて海沿いの街を走り回った。彼は仏教徒で、近くのお寺が気に入ったと言うと嬉しそうにし、ロヒンギャの話をすると眉をひそめて困った顔をした。「彼らはムスリムで、バングラデシュ人で、危ない。」

僕は彼のセミオートのスクーターで焼け落ちたモスクを訪ね、更地の多い市街地や、火事の跡が残る街路を歩いた。ロヒンギャの住む郊外の村で、英語の話せる大学2年生を紹介されて、二人乗りで広大な避難民キャンプを走り回った。州で一番の公立大学に通っていたその男の子は、衝突が起きて以来、大学に行けなくなっていた。

「仏教徒の学生に絡まれるのが怖いし、教員は公務員だから助けてはくれない。今は市街地には戻れないから、キャンプに外国人が来ると話しかけてまわってるんだ。英語の勉強にもなるしね。」彼の目は僕が同世代だからか嬉しそうで、彼の英語はとても流暢だった。僕たちは友だちになった。

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ベンガル湾に沈む夕日は毎日とても大きくて、その熱量と似た何かに僕は突き動かされていた。燃えるような空の下、ただひたすら色んな人に微笑みかけ、話しかけては、シャッターを切った。みな一様にキャンプの窮状を訴え、数ヶ月前に起きた衝突の恐怖を語り、もともと住んでいたシットウェの街に戻れる日を待ち望んでいた。

彼らの話と、街で仲良くなった仏教徒の話はたびたび食い違った。人は同じ世界を見ても、全く異なる認識をするのだ。その地に住む人々の間で強く機能している民族の境界が、一体どういうものなのか、僕は不思議でならなかった。(民族とは何かという疑問は、その後書くことになる卒業論文のテーマになる。)

ビルマ語もロヒンギャ語もしゃべれない僕を、その大学生の男の子はとても親切に助けてくれた。遠出をしすぎた夕方の帰り道、僕たちは一台のバイクに前後でまたがって、みるみる暗くなっていくあぜ道を急いだ。ライトは壊れていて、僕はタイヤを取られないよう、見えない地面のデコボコに必死になって目を凝らした。

平らな道に出てふと目を上げると、あたりは真っ暗で空には星が出ていた。平原には焚き火の明かりが無数に浮かんでいて、数万の避難民の息遣いが聞こえてくるようだった。稲刈りが終わったばかりの広い水田の先に、規則正しく並ぶテントが星明かりに照らされていた。

後ろに乗ってる友だちが低い声で言った。きっと僕が息を呑んだのが分かったのだろう。
「ミャンマーは民主化されたと言われているけど、僕たちに人権はない。」
バイクのエンジン音にかき消されそうなほど小さく、それでいてはっきりとした声だった。

***

あれから5年が経つ。最近、ロヒンギャ関連のニュースをまた頻繁に見かけるようになった。ロヒンギャがミャンマー人かどうかは知らないし外国人の僕が口を挟む問題ではないかもしれないけど、起きている惨状は笑って流せるたぐいのものではない。

僕が行った2012年から、状況は悪くなる一方だ。国連事務総長も現状が「民族浄化」にあたるという認識を示し、隣国バングラデシュに逃れるロヒンギャ難民は年末には100万人に及ぶと言われている。

現地でお世話になった人とも連絡が取れなくなった。あの大学生はいったいどこで何をしているんだろう。

 

地平線のサイボーグ

目が覚めると地平線の空が白んでいた。昨日の夜イスタンブールを発ち、バスは東に向かっていた。28日目くらいの薄い月が、金星とともに朝日に飲み込まれていく。見渡す限りの平原の向こうに、雪を頂いた山脈が広がっている。

バスはときたま小さな町を通り過ぎた。家々の黒いシルエットが、小さな丘をおおっている。モスクの尖塔を薄明の空に突き立てながら、町はまだ眠っていた。ミナレットはもうすぐ放送で夜明けの礼拝を告げるだろう。バスはその声を聞くことはない。

空は明るさと鮮やかさを増していく。乗客は寝静まっていて、僕だけが一人その美しさに興奮していた。町の近くには刈り取られた麦畑がひっそりと広がっている。郊外の工場のけむり。大きな水たまりに映る薄むらさきの空。

前方のおじさんが立ち上がって写真を撮り、後ろに座る僕を見た。自分がうなずいたのか首を振ったのかは分からない。僕たちは数秒目を合わせて無言の感嘆を投げ合った。ヒゲづらのおじさんの目尻に寄ったしわが、耽美主義のどんな詩よりも雄弁に世界の美しさを歌いあげている。

トルコで2週間を過ごして旅が日常になり始めた。「あれもしたい、これもしたい」という焦りから解放されて、また一つ自由になっていくのを感じる。ガズィアンテプで僕を悩ませたATMキャッシングのエラーは、カードの設定を変更したらあっけなく解決した。旅のはじめのノートに「インシャアッラー(神の意思のままに)」という走り書きがある。オスマン帝国の栄枯盛衰に思いを馳せて書いたメモだ。お金がなくてガズィアンテプを去らざるを得なかったのも、腹痛と高熱に悶え苦しんだのも、結局救われて旅を続けられているのも、きっと大いなる何かの意思なのだろう。

すっかり明るくなった車窓から乾燥した大地を眺めながら、数百年前のこの場所に暮らした人々のことを考えていた。もしも時空が歪んでそこに一人取り残されたらどうなるのだろう。日本語も英語も、去年ちょっとかじったjavaやhtmlもその世界では意味がない。サンドイッチを作れてもトースターは作れないし、僕の専門は医学や土木工学ではないから病気を直したり丘にモスクを建てたりすることもできない。

どこまでも続く平原を眺めながら、自分の無力さに笑いがこみ上げてきた。致命的に金欠だったこの数日の僕が、カードやトラベラーズチェックでお金を引き出せるかに一喜一憂していたのもとても可笑しかった。500年前のこの地で僕はどんな価値を生むことができるんだろう。僕ができることのほとんどは、同じ言葉を話す人たちがいるからできることだし、機械やインターネットとつながっているからできることだった。僕たちは自分の部品を作れないサイボーグみたいなものだ。

でももしその時代の朝焼けもこんなに綺麗なら、誰かと目を合わせてその美しさを共有できるかもしれない。たとえその世界で僕は役立たずでも、さっきのおじさんみたいに誰かと微笑み合うことができるかもしれない。世界の幸せの総量をほんの少し増やせるかもしれない。どんなに無力でも。僕たちは自分なりの美しさを世界に見出してしまうサイボーグなのだ。

クルド人の友達、妹の結婚式

ガズィアンテプで僕は2つのものを得た。一つは見知らぬ料理に驚かされる歓び。もう一つはクルド人の友達だ。そして不甲斐ないことに、僕はこの町を去るときにそのどちらも失うこととなる。一つはお腹を壊したせいで。そしてもう一つは、僕のコミュニケーションが至らなかったせいで。

メフメトたちと初めて一緒にチャイを飲んだとき、彼らは笑いながらこう教えてくれた。「トルコでは美味しくないお茶のことを『クルドのチャイ』と呼ぶんだ」。僕は彼らの出自を知らなくて、それは笑えない差別主義のジョークにしか聞こえなかった。

今思えばあれは普段から差別にさらされている彼らの、タフな自虐的笑いだったのだ。自分たちの立場を逆手に乗って、マジョリティによる差別を非難しながら笑うための。「クルドのチャイは飲んだ人をアンハッピーにするんだ」。彼らはそう言って大きな声で笑った。

僕たちは川沿いの小さな道で出会った。ガズィアンテプを西から東に横断するこの川は、シリアとの国境付近でユーフラテス川に注ぎ込み、戦火のシリアとイラクを抜けてペルシア湾につながっている。ここは地中海とペルシャ湾を結ぶ交通の要所であり、肥沃な三日月地帯のはしに位置する豊かな穀倉地帯でもある。その地政学的な豊かさはトルコ一と言われる食文化を育んだ一方、古くから戦争が絶えないことも意味している。南にたった50km行けば、体制派と反体制派とクルド系とが三つ巴の内戦を続けているシリアだ。

僕たちは頻繁に会ってたくさんの話をした。市井のクルド人を死ぬまで撮り続けた映画監督ユルマズ・ギュネイや、亡命先のパリで死んだ反骨の歌手アフメド・カヤーについて。トルコ軍での兵役がとても辛かったということ(トルコ軍はシリアでクルド人勢力と戦っているからだ。「国外のクルド人? もちろんfamilyだよ」と彼らは言う)。

一緒にケバブを食べて、彼らのオフィスで何杯もチャイを飲んだ。一人の実家でお母さんに手料理を振る舞われて、9歳年下の弟を連れてショッピングモールで買い物をした。「この週末に妹の結婚式があるんだけどお前も行くか?」。メフメトが結婚式に誘ってくれたのは彼らと出会って3日目のことだった。ファミリーや親友のように扱ってくれてとても嬉しかった。もちろん「ぜひ参列させてくれ」と応えた。スーツは彼のお古を借りることになった。

翌日の晩、僕はお腹を壊して寝込んだ。結婚式の2日前だった。おまけにどうしてか、クレカでもデビットカードでもお金が下ろせなかった。下痢のお腹を抱えて、トラベラーズチェックを換金できる銀行を探したけど、分かったのはイスタンブールやアンカラのような大都市ならできそうということだけ。キャッシュを節約するためにクレカが使える少し高いホテルに移動して、金欠で旅ができなくなるかもしれない不安と、胃腸炎から来る全身の痛みにもだえながら過ごした。昨日まではあんなに美味しかったトルコ料理は想像するのもうんざりで、道で話しかけてくる気さくな人たちはとても鬱陶しかった。

メフメトたちからはご飯のお誘いが来ていた。今度はお前がおごってくれよという他愛のない連絡だった(それまで毎度彼らは僕にご馳走してくれていた)。そのメッセージに僕は体調が悪い旨の返事をした。I’m sick. とか I’m feeling sick. とか、ごく一般的な体がだるいことを伝える英文を送ったつもりだった。stomach ache で吐き気がすると。

でも僕の稚拙な表現は彼らを誤解させてしまった。お前らのメシ代を出すなんて「うんざり(sick)」だ、I’m sick of you. だと思われたようだった。後から電話で誤解は解けたけど、僕たちの関係はそれ以前のものとは少し違うものとなった。結婚式の朝を過ぎても僕は高熱でベッドから出られず、キャッシュがないので数日後に帰ってくる彼らを待つこともできなかった。蜜月のような時間は損なわれていた。

ベッドで丸くなりながら、小さいころ親や学校の先生に叱られたときのことを思い出した。目の奥がジンと熱くなって泣いてしまうことがよくあったけど、それは怒られるのが嫌だったからではなく、自分の思いをうまく伝えられずに悔しかったからだ。自分の考えを上手く表せないのは本当にもどかしかった。言葉は本当に不自由で、伝わらないことは本当に苦しい。それは大人になっても同じなのだ。

メフメトたちの誤解は解け、彼らとは今でもSNSで連絡を取る。キャッシュ問題はガズィアンテプでは解決できず、僕はまたイスタンブールに帰ってきた。妹の結婚式は、無事に執り行われたようだ。

2010年代を旅するということ

時が変われば旅の仕方も変わる。国際郵便を受け取りに自国の大使館に立ち寄ることも、一宿の許しを村の長に乞うことも、寂寥とした砂漠で星空に道を教わることも今はない。

僕たちはスマホを片手にアプリで宿を探し、ラップトップで飛行機や夜行バスを予約して、クレジットカードでATMから現地通貨を引っ張り出す。

トルコ一の美食の街、ガズィアンテプで5日過ごした。中央広場で青空市が開かれていて、トルコ中から集まった人が自慢の食材を売り買いしている。カメラを持って歩くと色んな人が「写真撮ってよ」と話しかけてきて、僕は職業カメラマンのようにみんなの写真を撮った。報酬は売り物のおすそ分けだ。

北トルコで取れたベリーのシロップやハチミツ。地元の名産のナッツ類、色とりどりのトルコ菓子。「甘いでしょ? あっちでチャイも売ってるから試してみたら」。黒海沿岸の山で取れたお茶、炭火で淹れてくれるトルココーヒー。一周してまたシロップとハチミツ。

英語を話せる人はほとんどいなかったのだけど、google mapとgoogle翻訳を使えばどこから来たどんな食べ物なのかは分かる。若い人はほとんどインスタやFBやWhatsAppをやっていて、別れ際に「写真はここに送ってね」だ。

マルコ・ポーロや三蔵法師、ましてや小田実や沢木耕太郎を引き合いに出すまでもなく、この数年で旅の形は大きく変わった。7年前に初めて一人で海外に行ったとき、ガイドブック片手に北タイを3週間かけて回った僕はスマホを持っていなかったはずなのだ。あそこ出会った人たちに再会することができるのは、当時のノートと思い出の中だけ。お別れの挨拶は「またね」じゃなくて「さよなら」だった。

今回の旅ではHostelWorldというアプリを使って宿を探している。旅人が付けたレートに応じてホステルの候補が出る安宿検索アプリだ。レートの高い宿には必ずラウンジがあってコンチネンタルブレックファストが付いて、トイレは洋式の紙ありでWiFiは速く、シーツは清潔でシャワーは温水で、受付はめちゃフレンドリーな英語を話す。「ハイ!調子はどう?」。

旅をはじめて2週間くらいは重宝していたのだけど、ガズィアンテプでは使うのをやめた。インターナショナルな旅行者にとって快適な安宿は、驚くほど「どこも同じ」なのだ。それは快適だけどありきたりで、安心だけど味気ない。そこでは面倒を乗り越えることで得られる自由の感覚が欠けているのだ。トイレットペーパーを使わずに初めて用を足せたときのような。

ガズィアンテプに着いた夜、僕はスマホを封印して雨のなか宿を探し歩いた。たくさんの人が助けてくれたけど、提案されるホテルはどこも予算オーバーで良い宿が見つからない。重たいバックパックもろともずぶ濡れになりながら、それでも僕は町歩きを楽しんでいた。

一人でできないから自然と誰かに助けてもらう。そこからコミュニケーションが生まれ、町に思い出ができる(もちろん悪い思い出のこともある)。なんとか安ホテルに転がり込んだ僕は、いっそスマホなんてない時代のほうが楽しい旅ができたんじゃないかと思い始めていた。

翌日、金輪際スマホを使わずに旅をしようと決意した懐古主義者の僕は、もらった地図を頼りに古代ギリシアのモザイク博物館を訪ねた。修学旅行の女子高校生集団と仲良くなって、ベンチに座っておしゃべりをした。インスタのアカウントを聞かれて彼女たちのスマホで自分を検索した後、もっと日本の写真を見せてとせがまれたので僕はいそいそとスマホの電源を入れる。

Good!とBeautiful!くらいしか英語が通じない彼らと、小一時間ほどお互いの写真を見せあって、僕のbeatifulのレパートリーは20種類くらいに増えた。「きれいな景色だね」から「めっちゃ美人!」まで。

一日で宗旨変えすることになるとは思わなかったけど、やっぱりスマホは素晴らしい。僕らは2010年代の旅人なのだ。その時代には、その時代の旅がある。

星はダンディなおじさんを回る

ダンディなおじさんには不思議な重力がある。ホステルの隣のスパイス屋、屋台でサンドイッチを作るおじさん、黙々と生地を広げる菓子職人。素敵なおじさまに不時着せずに、イスタンブールを歩くのは難しい。

どんよりとした昼下がり、ダウンジャケットの襟元を絞って海風に震えながら町を歩いていた。ダウンタウンに近い船着き場でフェリーを降り、地図を見ずに丘の上のモスクに向かう。トラムが走る大通りから一つ奥に入った小さな路地で、コーヒー屋のおじさんが炭火をあおいでいた。目を合わせるとニヤリと笑い、「飲んでいくか?」と声をかけてくる。もちろん言葉はわからないけど。

おじさんは小さなカップを取り出して「これお前のな」と僕を指差すと、カップをぬるま湯で満たした。そのお湯を真鍮の柄杓に入れて炭火にかける。スプーンいっぱいのコーヒー粉を優しく乗せるように入れる。イブリックと呼ばれるその柄杓があったまるにつれて、粉は少しずつ沈んでいく。角砂糖を2個乗せる。

その滑らかな手付きは、僕に「いらないよ」と言わせなかった。おじさんの笑顔とコーヒーの香り。僕は値段を聞く。「やっぱり飲むでしょ?」という顔をして、おじさんはジェスチャーとともに値段を答え、コーヒーを軽くかき混ぜた。優しく、かちゃかちゃと楽器のように良い音をさせて。これまで聞いた最も素敵なかちゃかちゃだ。この旅行が映画ならサウンドトラックに入れてもいい。

彼は柄杓を持ち上げて、ドロドロのコーヒーを小さなカップにするりと入れる。粉っぽいその液体の上澄みをすするのがトルコ式コーヒーだ。見とれている僕を赤い布で飾ったテーブルに座らせると、音を立てずにカップを置いた。注ぐときの手つき、一発で僕を立ち止まらせた笑顔、気取らないセーターとチノパン。僕はそのダンディズムに魅せられていた。

一口飲んでつい頬が緩む。ダンディとはその人自身のことではなく、その人が空間にもたらした変化なのだと気づく。彼のダンディは、そのコーヒーであり、自身の選んだカップとソーサーであり、使い慣れたイブリックであり、店を彩る赤と緑のキリムであり、その空間そのものだった。

公転する星たちのように、その店は彼の重力を受けて回っていた。テーブルもじゅうたんも柄杓もコーヒーもそれを飲む客も、もちろんその甘味に歓びのため息を付いた僕自身も。その総体が彼のダンディなのだ。周回軌道を描いて、翌日もまた僕はその店にいた。

シリア人のにいちゃん、東京に暮らす幸運について

イスタンブールでは、アヤソフィア大聖堂にほど近いダウンタウンのホステルに泊まっている。1段ベッドが並ぶドミトリー、1泊30リラでだいたい900円くらいだ。屋上の共有スペースで深夜までどんちゃん騒ぎをしているのが玉にキズだけど、立地も良くて日の当たる気持ちのよい部屋だ。

トラムも走るメインストリート沿いのそのホステルは、1階が観光客向けのみやげ物屋になっていて、シリア人のにいちゃんがトルコ石の指輪やシルクのスカーフを売っている。

彼と話したのは、安くて美味いメシ屋を聞くためだった。彼はバルカンロカンタシという近所の店をおすすめしてくれて、最初の一口で僕は彼が好きになった。

バルカンロカンタシは繁華街の裏通りにある小さな安食堂で、ガラス張りの入り口の横に煮込み料理が並んでいる。気になるものを指差すとおっちゃんがなみなみと皿によそってくれる。「ご飯は? パンは? 飲み物は? スープは?」。おかずとパンとで、8リラ50クルシュ。300円くらいだった。

1階でみやげ物を売るにいちゃんとは、暇そうなときによく話すようになった。安宿を探すのにもってこいなアプリを教えてもらったり、イスタンブールで行っておくべき場所を教えてもらったり。

周りに人がいないとき、彼はたまに悲しそうな顔をした。宿泊客や仕事仲間と話しているときは、いつもおどけて変な冗談をとばしているのに。

彼の地元は、シリアのあの街は今どんな状況なんだろう。戦火に巻き込まれた故郷を離れて、隣の国で暮らすってのはどんな気分なんだろう。FBで友だちになって、僕が「この写真いいね。どこなの?」と聞いたとき、彼は首を振って何も言わなかった。僕は自分のデリカシーの無さが恥ずかしかった。

たまに彼は「日本に行きたいんだ」と言った。「日本で働けないかな?」と。僕はどんな方法があるのか少し考えたけど、悲しい顔をして言うしかなかった。たぶん君が就ける良い仕事は日本にはないよ。就労ビザは降りないだろう。難民認定だって何年も待っている人がゴマンといるんだ。そういう国なんだ。

彼は英語が上手で、大学ではインテリアデザインを学んで、初めての人にも好まれる気さくさと、困っている人を助ける思いやりとを持っている。中国人観光客に指輪を売るのはそれほど上手くないけど、やりたいことが一致するならぜひ一緒に働きたいと思える素敵な人だ。

昨日は日本の話をした。日本のどこに住んでるのと聞かれて「トーキョー」と答えると、彼は一言こう言った。
「You are lucky.」

僕も本当にそう思う。東京で僕が立っているのは、先人たちが築いた硬く高い土台の上なのだと。小さい努力で豊かな暮らしができるのは、僕らの能力よりも、整えられたインフラと社会制度のおかげだと。そしてそんな場所に生まれ落ちたのは、本当に運が良かっただけなのだ。

雪のモスクワ空港、日本の僕がとらわれているもの

目が覚めて外を見るとぼたん雪が舞っていた。17時にモスクワ空港に着いたときはまだ降っていなかったから、夜中に降り始めたようだった。着いたときには既に真っ暗だったけど、朝の7:30に飛行機が出たときもまだ真っ暗。

寝袋にくるまって、9時間熟睡した。敷き布団がわりの借りたブランケット、お気に入りのシュラフ、アイマスクにマスクに耳栓。ダウンジャケットを詰めたデイパックを枕にして、盗られるものは何もない。体を折って椅子で寝ている人、床に座り込んでいる人、せわしなく通り過ぎる人。床に寝転がっているのは僕だけだった。

リラックスして寝れたことに少し嬉しくなる。「こう振る舞わなきゃいけない」という価値観の束縛から、自分が自由になっていくのを感じる。日本でできないことができるようになるのは、旅の醍醐味の一つだ。ちょっと背中は痛いけど、少し体が軽くなる。

東京にずっといると、自分の体に染み込んでいる価値観に無自覚になってしまう。「こう振る舞うべき」というルールがばっちり体に染み付いていて、外に出なければそれが不自由だったことにも気づかない。

エスカレーターでは片側に立つ。まともな大人は街を歩きながら歌ったりスキップしちゃいけない。電車では静かにする(赤ちゃんですら大声を出すのを許されない!)。

自分がどういう価値観に囚われているのか、いつも注意深くありたい。会社までスキップして行く人とか、電車で泣いてる赤ちゃんに話しかけるひととか、新橋駅で『ラ・ラ・ランド』を踊る人とか、そういう人が増えれば、きっと日本はもっと住みやすくなると思うのだ。

 

過去の旅と今の旅、3つのルール

バックパックを背負って旅に出るのは何度目だろうか。

初めて一人で旅行に行ったのは、中学2年生のときだった。自転車の後ろに荷物を積んで、竹芝から伊豆大島行きの夜行フェリーに乗った。甲板から見えるビルの群れはとても綺麗で、僕は東京の夜景が美しいとそのとき初めて知った。

大学1年の夏には自転車で北海道を回った。人類学をやってるというアメリカ人のお兄さんから、日本文化の面白さを話して聞かされた。同じものを見ても、見方が異なればまったく違うものが見えるのだと知った。彼は日本で研究職を探していると言っていた。今は奥さんに食わしてもらってて、この国に人類学者のポストはぜんぜんないんだ、と。「でも運が悪いことに、僕はこの国が大好きなんだ」。

初めて海外に一人で行ったのは大学2年生の夏だった。北タイを2週間かけて回った。それ以降、長期休暇のたびに僕は東南アジアにいた。休学してミャンマーの友達と民主主義について語り合って、卒論はタイの少数民族について書いた。

いま僕はモスクワにいる。これが何度目の旅かは分からない。空港のロビーでこうして過去の旅を思い出しながら、他の旅人と立ち話をしていると、これまで通り過ぎてきた町で、何もわからない僕を助けてくれたたくさんの人たちの顔が浮かぶ。

僕はこの町もまた通り過ぎていくだろう。でもいつも新しい町に着くたびに思う。この町を「通り過ぎる町の一つ」にはしたくないと。少しでもこの町を、僕にとっての「かけがえのない町」に近づけたいし、少しでもこの町にとっての「通り過ぎていく観光客」から脱したいと。でもそれはとても難しいのだ。

今回の旅では3つのルールを決めた。
・遠慮しないこと
・かっこつけないこと
・遠くの友達ではなく、目の前の人とつながること

「旅の恥はかき捨て」を徹底してなんでも周りの人に聞く。したいことはしたいと言うし、したくないことはしたくないと言う。仕事のメールはするけどSNSは減らす。

これは旅じゃなくても、日常で出会ったものを楽しみつくすための秘訣かもしれない。偶然起こった出来事、美味しい食べ物、すれ違う人たちとの出会いを存分に味わうための。

今回はどんな町でどんな人たちと出会うんだろう。