選択しないことに慣れてしまった僕たち

バスが速度を落とすのに気付いて目が覚めた。数人の乗客が降りる準備をし、バスは雨のターミナルに滑り込んでいく。窓の外では、鼻筋の通った男の子が両親と抱き合っている。名残を惜しむように何度もお別れを告げ、ステップを上がって前の席に座った。窓越しに手を振りながら、今度は電話をつないでさよならを言っている。

昨日まで一緒だった女の子と別れて、僕は一人で長距離バスに乗っていた。カッパドキアへのバスで出会ったパキスタン人エンジニアの女の子だ。予約していたホステルがたまたま一緒だったから、2、3日ともに過ごした。

彼女はとてもパワーのある人だった。自分なりのロジックで何かを選択し、やると決めたことにはすごい勢いで突き進んでいった。優柔不断な僕はことあるごとに「あなたはどうしたいの?」と凄まれて、どちらも捨てがたいと考え込む。その都度彼女はこう返すのだ。「したいのしたくないの? イエスオアノー!?」

思えば僕は何かを選択することをしょっちゅう放棄してきた。飲みの席では何も考えずにビールを頼むし、帰り道は乗換案内まかせだし、夕飯の希望を聞かれても「なんでもいい」とばかり言っていた(実家にいたころの話だ)。どうやら選択しない選択ばかりしていると、大切な場面でも自分が何をしたいのか分からなくなってしまうらしい。

台風みたいな彼女と過ごす時間はあっという間に過ぎ、彼女はスーフィズム発祥の地コンヤに一人向かっていった。直前まで「カッパドキア最高。風が止んで気球に乗れるまでずっとここにいたい」と笑っていたのに、コンヤのうわさを聞いた途端「私にとってはバルーンよりもコンヤの方がよほど大切なの」と真面目な顔をして言ってのけた。

同じホステルに泊まっていた中南米のおじさんは、彼女がこの町を去ったと聞いてため息をついた。「行っちゃったのか。静かになるね」。僕のベッドをのぞき込んで「寂しいかい?」と聞いてきたので、「んなアホな!せいせいですわ!」と言ってやった。でももちろん冗談だ。シャツの背中に穴が開いているような気分だった。カッパドキアの旅が終わったような気がした。

翌日、僕はバスターミナルで次の町への切符を買った。エーゲ海の観光地イズミルに行こうか、トルコ一の美食の街ガズィアンテプに行こうか、それとも彼女が行ったスーフィズム発祥の地コンヤに行こうか。考え込む僕をバス会社のお兄さんは笑って待ってくれた。

彼女の真似をしてコンヤに行こうかとも思ったけど、「あなたはどこに行きたいの?」という彼女の声が聴こえるような気がした。僕はガズィアンテプへの切符を買った。これは僕の旅だ。誰かが代わりに選んでくれることはない。

南部に向かうバスは雨の中を走っている。バスが進むにつれて、川は水量を増し、車窓には緑が茂る。さっき乗り込んできた男の子はまだ誰かと電話している。この人も何かの選択をして、このバスに乗り込んだのだろうか。