地平線のサイボーグ

目が覚めると地平線の空が白んでいた。昨日の夜イスタンブールを発ち、バスは東に向かっていた。28日目くらいの薄い月が、金星とともに朝日に飲み込まれていく。見渡す限りの平原の向こうに、雪を頂いた山脈が広がっている。

バスはときたま小さな町を通り過ぎた。家々の黒いシルエットが、小さな丘をおおっている。モスクの尖塔を薄明の空に突き立てながら、町はまだ眠っていた。ミナレットはもうすぐ放送で夜明けの礼拝を告げるだろう。バスはその声を聞くことはない。

空は明るさと鮮やかさを増していく。乗客は寝静まっていて、僕だけが一人その美しさに興奮していた。町の近くには刈り取られた麦畑がひっそりと広がっている。郊外の工場のけむり。大きな水たまりに映る薄むらさきの空。

前方のおじさんが立ち上がって写真を撮り、後ろに座る僕を見た。自分がうなずいたのか首を振ったのかは分からない。僕たちは数秒目を合わせて無言の感嘆を投げ合った。ヒゲづらのおじさんの目尻に寄ったしわが、耽美主義のどんな詩よりも雄弁に世界の美しさを歌いあげている。

トルコで2週間を過ごして旅が日常になり始めた。「あれもしたい、これもしたい」という焦りから解放されて、また一つ自由になっていくのを感じる。ガズィアンテプで僕を悩ませたATMキャッシングのエラーは、カードの設定を変更したらあっけなく解決した。旅のはじめのノートに「インシャアッラー(神の意思のままに)」という走り書きがある。オスマン帝国の栄枯盛衰に思いを馳せて書いたメモだ。お金がなくてガズィアンテプを去らざるを得なかったのも、腹痛と高熱に悶え苦しんだのも、結局救われて旅を続けられているのも、きっと大いなる何かの意思なのだろう。

すっかり明るくなった車窓から乾燥した大地を眺めながら、数百年前のこの場所に暮らした人々のことを考えていた。もしも時空が歪んでそこに一人取り残されたらどうなるのだろう。日本語も英語も、去年ちょっとかじったjavaやhtmlもその世界では意味がない。サンドイッチを作れてもトースターは作れないし、僕の専門は医学や土木工学ではないから病気を直したり丘にモスクを建てたりすることもできない。

どこまでも続く平原を眺めながら、自分の無力さに笑いがこみ上げてきた。致命的に金欠だったこの数日の僕が、カードやトラベラーズチェックでお金を引き出せるかに一喜一憂していたのもとても可笑しかった。500年前のこの地で僕はどんな価値を生むことができるんだろう。僕ができることのほとんどは、同じ言葉を話す人たちがいるからできることだし、機械やインターネットとつながっているからできることだった。僕たちは自分の部品を作れないサイボーグみたいなものだ。

でももしその時代の朝焼けもこんなに綺麗なら、誰かと目を合わせてその美しさを共有できるかもしれない。たとえその世界で僕は役立たずでも、さっきのおじさんみたいに誰かと微笑み合うことができるかもしれない。世界の幸せの総量をほんの少し増やせるかもしれない。どんなに無力でも。僕たちは自分なりの美しさを世界に見出してしまうサイボーグなのだ。