クルド人の友達、妹の結婚式

ガズィアンテプで僕は2つのものを得た。一つは見知らぬ料理に驚かされる歓び。もう一つはクルド人の友達だ。そして不甲斐ないことに、僕はこの町を去るときにそのどちらも失うこととなる。一つはお腹を壊したせいで。そしてもう一つは、僕のコミュニケーションが至らなかったせいで。

メフメトたちと初めて一緒にチャイを飲んだとき、彼らは笑いながらこう教えてくれた。「トルコでは美味しくないお茶のことを『クルドのチャイ』と呼ぶんだ」。僕は彼らの出自を知らなくて、それは笑えない差別主義のジョークにしか聞こえなかった。

今思えばあれは普段から差別にさらされている彼らの、タフな自虐的笑いだったのだ。自分たちの立場を逆手に乗って、マジョリティによる差別を非難しながら笑うための。「クルドのチャイは飲んだ人をアンハッピーにするんだ」。彼らはそう言って大きな声で笑った。

僕たちは川沿いの小さな道で出会った。ガズィアンテプを西から東に横断するこの川は、シリアとの国境付近でユーフラテス川に注ぎ込み、戦火のシリアとイラクを抜けてペルシア湾につながっている。ここは地中海とペルシャ湾を結ぶ交通の要所であり、肥沃な三日月地帯のはしに位置する豊かな穀倉地帯でもある。その地政学的な豊かさはトルコ一と言われる食文化を育んだ一方、古くから戦争が絶えないことも意味している。南にたった50km行けば、体制派と反体制派とクルド系とが三つ巴の内戦を続けているシリアだ。

僕たちは頻繁に会ってたくさんの話をした。市井のクルド人を死ぬまで撮り続けた映画監督ユルマズ・ギュネイや、亡命先のパリで死んだ反骨の歌手アフメド・カヤーについて。トルコ軍での兵役がとても辛かったということ(トルコ軍はシリアでクルド人勢力と戦っているからだ。「国外のクルド人? もちろんfamilyだよ」と彼らは言う)。

一緒にケバブを食べて、彼らのオフィスで何杯もチャイを飲んだ。一人の実家でお母さんに手料理を振る舞われて、9歳年下の弟を連れてショッピングモールで買い物をした。「この週末に妹の結婚式があるんだけどお前も行くか?」。メフメトが結婚式に誘ってくれたのは彼らと出会って3日目のことだった。ファミリーや親友のように扱ってくれてとても嬉しかった。もちろん「ぜひ参列させてくれ」と応えた。スーツは彼のお古を借りることになった。

翌日の晩、僕はお腹を壊して寝込んだ。結婚式の2日前だった。おまけにどうしてか、クレカでもデビットカードでもお金が下ろせなかった。下痢のお腹を抱えて、トラベラーズチェックを換金できる銀行を探したけど、分かったのはイスタンブールやアンカラのような大都市ならできそうということだけ。キャッシュを節約するためにクレカが使える少し高いホテルに移動して、金欠で旅ができなくなるかもしれない不安と、胃腸炎から来る全身の痛みにもだえながら過ごした。昨日まではあんなに美味しかったトルコ料理は想像するのもうんざりで、道で話しかけてくる気さくな人たちはとても鬱陶しかった。

メフメトたちからはご飯のお誘いが来ていた。今度はお前がおごってくれよという他愛のない連絡だった(それまで毎度彼らは僕にご馳走してくれていた)。そのメッセージに僕は体調が悪い旨の返事をした。I’m sick. とか I’m feeling sick. とか、ごく一般的な体がだるいことを伝える英文を送ったつもりだった。stomach ache で吐き気がすると。

でも僕の稚拙な表現は彼らを誤解させてしまった。お前らのメシ代を出すなんて「うんざり(sick)」だ、I’m sick of you. だと思われたようだった。後から電話で誤解は解けたけど、僕たちの関係はそれ以前のものとは少し違うものとなった。結婚式の朝を過ぎても僕は高熱でベッドから出られず、キャッシュがないので数日後に帰ってくる彼らを待つこともできなかった。蜜月のような時間は損なわれていた。

ベッドで丸くなりながら、小さいころ親や学校の先生に叱られたときのことを思い出した。目の奥がジンと熱くなって泣いてしまうことがよくあったけど、それは怒られるのが嫌だったからではなく、自分の思いをうまく伝えられずに悔しかったからだ。自分の考えを上手く表せないのは本当にもどかしかった。言葉は本当に不自由で、伝わらないことは本当に苦しい。それは大人になっても同じなのだ。

メフメトたちの誤解は解け、彼らとは今でもSNSで連絡を取る。キャッシュ問題はガズィアンテプでは解決できず、僕はまたイスタンブールに帰ってきた。妹の結婚式は、無事に執り行われたようだ。