ベンガル湾に沈む夕日は毎日とても大きくて、その熱量と似た何かに僕は突き動かされていた

22歳の誕生日をクアラルンプールの安宿で回らない扇風機に悪態をつきながら過ごした1ヶ月後、僕はミャンマー西部のシットウェという町に寝泊まりして、ロヒンギャの避難民キャンプまで毎日バイクで通っていた。

町でレストランを経営している一家の気のいい次男坊から、毎朝バイクを借りて海沿いの街を走り回った。彼は仏教徒で、近くのお寺が気に入ったと言うと嬉しそうにし、ロヒンギャの話をすると眉をひそめて困った顔をした。「彼らはムスリムで、バングラデシュ人で、危ない。」

僕は彼のセミオートのスクーターで焼け落ちたモスクを訪ね、更地の多い市街地や、火事の跡が残る街路を歩いた。ロヒンギャの住む郊外の村で、英語の話せる大学2年生を紹介されて、二人乗りで広大な避難民キャンプを走り回った。州で一番の公立大学に通っていたその男の子は、衝突が起きて以来、大学に行けなくなっていた。

「仏教徒の学生に絡まれるのが怖いし、教員は公務員だから助けてはくれない。今は市街地には戻れないから、キャンプに外国人が来ると話しかけてまわってるんだ。英語の勉強にもなるしね。」彼の目は僕が同世代だからか嬉しそうで、彼の英語はとても流暢だった。僕たちは友だちになった。

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ベンガル湾に沈む夕日は毎日とても大きくて、その熱量と似た何かに僕は突き動かされていた。燃えるような空の下、ただひたすら色んな人に微笑みかけ、話しかけては、シャッターを切った。みな一様にキャンプの窮状を訴え、数ヶ月前に起きた衝突の恐怖を語り、もともと住んでいたシットウェの街に戻れる日を待ち望んでいた。

彼らの話と、街で仲良くなった仏教徒の話はたびたび食い違った。人は同じ世界を見ても、全く異なる認識をするのだ。その地に住む人々の間で強く機能している民族の境界が、一体どういうものなのか、僕は不思議でならなかった。(民族とは何かという疑問は、その後書くことになる卒業論文のテーマになる。)

ビルマ語もロヒンギャ語もしゃべれない僕を、その大学生の男の子はとても親切に助けてくれた。遠出をしすぎた夕方の帰り道、僕たちは一台のバイクに前後でまたがって、みるみる暗くなっていくあぜ道を急いだ。ライトは壊れていて、僕はタイヤを取られないよう、見えない地面のデコボコに必死になって目を凝らした。

平らな道に出てふと目を上げると、あたりは真っ暗で空には星が出ていた。平原には焚き火の明かりが無数に浮かんでいて、数万の避難民の息遣いが聞こえてくるようだった。稲刈りが終わったばかりの広い水田の先に、規則正しく並ぶテントが星明かりに照らされていた。

後ろに乗ってる友だちが低い声で言った。きっと僕が息を呑んだのが分かったのだろう。
「ミャンマーは民主化されたと言われているけど、僕たちに人権はない。」
バイクのエンジン音にかき消されそうなほど小さく、それでいてはっきりとした声だった。

***

あれから5年が経つ。最近、ロヒンギャ関連のニュースをまた頻繁に見かけるようになった。ロヒンギャがミャンマー人かどうかは知らないし外国人の僕が口を挟む問題ではないかもしれないけど、起きている惨状は笑って流せるたぐいのものではない。

僕が行った2012年から、状況は悪くなる一方だ。国連事務総長も現状が「民族浄化」にあたるという認識を示し、隣国バングラデシュに逃れるロヒンギャ難民は年末には100万人に及ぶと言われている。

現地でお世話になった人とも連絡が取れなくなった。あの大学生はいったいどこで何をしているんだろう。