心の自由を奪うものは無数にあるけど、そこから自由になる方法はそれほど多くない。
4泊5日で屋久島に行った。
鹿児島からの昼のフェリーは満席で乗れず、かわりに向かった歴史資料館は月に一度の休館日、修学旅行の小学生がしてきた挨拶にはとっさに返事ができず、夕方の最終フェリーにも乗り遅れた。
何をやっても足の小指をタンスにぶつけるような日がたまにある。この日がそれだった。
頭は働かないし、笑顔が作れないし、体は重くて、桜島には雲がかかってた。
港の近くのゲストハウスに泊まって朝のフェリーで屋久島に向かった。ゲストハウスには昔好きだった漫画があって、イスラエル人の女の子が熱心に読んでいた。
「あなた日本語わかる? これはどんなマンガなの?」
手渡された一冊を手にとって僕は答えた。江戸初期の日本の話で、主人公は武道の修行をしながら旅をしてる。
「ふうん、私たちみたいね。」彼女はおもむろにページをめくって、水墨画のような見開きを指した。荒れ地に田んぼを作りながら、主人公が旅する意味を模索していた。
『水は流され、ただ与えられたように振る舞う。それは不自由のようにみえて、完全に自由だ。』
僕は言った。
「雨や川や田んぼの水から、彼はタフさとは何か学ぼうとしている。水は自分で自分をしばらない。本当の自由は、自意識で自分をがんじがらめにするのをやめるところから始まるんだと思う」
「ボブ・ディランが言いそうね。ライク・ア・ローリング・ストーン」
銭湯に行った後、ゲストハウスの屋上でビールを飲んだ。彼女はボブ・ディランを口ずさんでいた。僕はノートを取り出して、今ごろ着いているはずだった屋久島での計画を破って捨てた。なるようになると思った。川の水のように、転がる石のように。
屋久島では森を歩いて、山小屋に泊まった。へとへとでたどり着いたキャンプ場で、夕日を見ながらぬるくなったビールを飲んだ。イカを食べさせてくれた板前さんが子供のころ遊んだ沢に行った。星空を見てウミガメの足跡を見つけた。ヒッチハイクして温泉に入って、郵便局で絵葉書を出した。
最後の夕方、海の近くのキャンプ場で、川が赤く染まるのを眺めてた。鮮やかだった山は彩りを失い、匂い立つような空の色は対象的に強さを増していった。魚の跳ねる音、夏の虫、遠くの町で上がる笑い声。
東京でも美しいものに出会って、少しの間立ち止まることはある。写真を撮ってSNSに上げ、いいねを集めて、僕はささやかな自尊心を満たすだろう。それは自己愛だ。ステータスとして恋人を欲しがる大学生のような、倒錯した我欲。美しいものを美しいままに愛することが、東京の僕にはできない。
ポケットのスマートフォン、次の予定、SNSのフォロワー数。自尊心や義務感にがんじがらめになって、僕は自分で自分をしばってる。水のように自由でなければ、美しいものを美しいままに愛するとはできない。
良質なドラッグで見る幻覚のように、川の水は混ざり合いながら色を変えた。川は空の色を写して、ただその美しさをたたえている。空を愛しんでいるようだった。あるいはこの時間と空間そのものを愛しんでいたのかもしれない。
東京に戻ったら、流れる水のようにノープランではいられないだろう。でもたまにはスマホを持たずに、川辺で夕日でも眺めようと思った。自由なふるまいや、美しいものの愛し方について、僕たちはいつでも目の前のものから学ぶことができる。
鹿児島で読んだマンガの主人公みたいだなと、僕はくつくつと笑った。魚の跳ねる音がした。星が出始めていた。