心の自由を奪うものは無数にあるけど

心の自由を奪うものは無数にあるけど、そこから自由になる方法はそれほど多くない。

4泊5日で屋久島に行った。
鹿児島からの昼のフェリーは満席で乗れず、かわりに向かった歴史資料館は月に一度の休館日、修学旅行の小学生がしてきた挨拶にはとっさに返事ができず、夕方の最終フェリーにも乗り遅れた。

何をやっても足の小指をタンスにぶつけるような日がたまにある。この日がそれだった。
頭は働かないし、笑顔が作れないし、体は重くて、桜島には雲がかかってた。

港の近くのゲストハウスに泊まって朝のフェリーで屋久島に向かった。ゲストハウスには昔好きだった漫画があって、イスラエル人の女の子が熱心に読んでいた。

「あなた日本語わかる? これはどんなマンガなの?」

手渡された一冊を手にとって僕は答えた。江戸初期の日本の話で、主人公は武道の修行をしながら旅をしてる。

「ふうん、私たちみたいね。」彼女はおもむろにページをめくって、水墨画のような見開きを指した。荒れ地に田んぼを作りながら、主人公が旅する意味を模索していた。

『水は流され、ただ与えられたように振る舞う。それは不自由のようにみえて、完全に自由だ。』

僕は言った。
「雨や川や田んぼの水から、彼はタフさとは何か学ぼうとしている。水は自分で自分をしばらない。本当の自由は、自意識で自分をがんじがらめにするのをやめるところから始まるんだと思う」

「ボブ・ディランが言いそうね。ライク・ア・ローリング・ストーン」

銭湯に行った後、ゲストハウスの屋上でビールを飲んだ。彼女はボブ・ディランを口ずさんでいた。僕はノートを取り出して、今ごろ着いているはずだった屋久島での計画を破って捨てた。なるようになると思った。川の水のように、転がる石のように。

屋久島では森を歩いて、山小屋に泊まった。へとへとでたどり着いたキャンプ場で、夕日を見ながらぬるくなったビールを飲んだ。イカを食べさせてくれた板前さんが子供のころ遊んだ沢に行った。星空を見てウミガメの足跡を見つけた。ヒッチハイクして温泉に入って、郵便局で絵葉書を出した。

最後の夕方、海の近くのキャンプ場で、川が赤く染まるのを眺めてた。鮮やかだった山は彩りを失い、匂い立つような空の色は対象的に強さを増していった。魚の跳ねる音、夏の虫、遠くの町で上がる笑い声。

東京でも美しいものに出会って、少しの間立ち止まることはある。写真を撮ってSNSに上げ、いいねを集めて、僕はささやかな自尊心を満たすだろう。それは自己愛だ。ステータスとして恋人を欲しがる大学生のような、倒錯した我欲。美しいものを美しいままに愛することが、東京の僕にはできない。

ポケットのスマートフォン、次の予定、SNSのフォロワー数。自尊心や義務感にがんじがらめになって、僕は自分で自分をしばってる。水のように自由でなければ、美しいものを美しいままに愛するとはできない。

良質なドラッグで見る幻覚のように、川の水は混ざり合いながら色を変えた。川は空の色を写して、ただその美しさをたたえている。空を愛しんでいるようだった。あるいはこの時間と空間そのものを愛しんでいたのかもしれない。

東京に戻ったら、流れる水のようにノープランではいられないだろう。でもたまにはスマホを持たずに、川辺で夕日でも眺めようと思った。自由なふるまいや、美しいものの愛し方について、僕たちはいつでも目の前のものから学ぶことができる。

鹿児島で読んだマンガの主人公みたいだなと、僕はくつくつと笑った。魚の跳ねる音がした。星が出始めていた。

この話はフィクションなのだけど、井の頭池に飛び込んだことがある

この話はフィクションなのだけど、井の頭池に飛び込んだことがある。

二度目の東京オリンピックを3年後に控えて、東京の街はレッドブルを一気飲みした徹夜明けの朝みたいに、気だけが急いで頭がすこしも働かないという表情をしていた。

飲み会の帰りに友だちと二人で飲み直すことになって、喧嘩していたガールフレンドに謝罪の電話を入れてから、ラムの美味い店に入ろうということになった。

長電話になっては退屈なので井の頭公園に向かったけど、その心配はなかった。電話が一方的に切られてしまったときの僕の顔は、とても間抜けだったはずだ。友だちはこういった。

「失敗したときの理由を、自分の普遍的な性質のせいにするやつはネガティブで、そのときの条件のせいにする奴はポジティブ」

夏が始まりそうないい夜だった。井の頭池は吸い込まれそうなピアノブラックで、風がないのに梢のそよぐ音がした。どこかで猫が喧嘩している。ガールフレンドをまた怒らせてしまったのも、猫が騒いでいるのも、弾力のない春の終わりの空気のせいだった。

もたれていた橋の欄干から身を起こして、シャツを脱いで丁寧にたたんだ。靴を揃えて脱いだ。ふと立ち止まって見てしまった友だちの表情は雄弁だった。

「お前はいつも衝動に従いそうになっている自分を一度客観視してしまう。それでも衝動に従っている自分を演じなくてはならないと自分に言い聞かせている。哀れな男だよ」

僕はとてもつまらない演説をぶって、宙返りをしながら飛び込んだ。井の頭池の水はぬるくて気持ちよかった。落ちる瞬間に対岸の街灯がキラキラと光った。欄干に這い上がって、もう一度飛び込んだ。今後は背面宙返りで。

翌日、緑のイルカになって井の頭池を泳ぐ夢を見た。

額縁に入れて飾った絵の、続きを描くことはできない

懐かしい町に久しぶりに来て、
暮らしていたアパートの階段や、よく遊んだ公園のベンチに腰かけた。

階段の手すりの錆びや、遊具が風に揺れて軋む音のような、幼いころには注意を寄せさえしなかったものが、僕のからだのどこかに蓄えられているのを知る。

瓶の底に沈む果実酒のおりを静かに撹拌するみたいに、ベンチに座って公園を眺めるだけで、そこで過ごした時間と、目の前の時間とが混ざり合っていく。

僕らはあの夏の静かな夜に包まれながら気づく。その空間は、確かな意思で僕らを愛してくれていたと。

一緒に歌った歌が聞こえる。
語り終えた物語、描き上げた絵、固く栓をしたボトル。

額縁に入れて飾ってしまった絵の、続きを描くことはできない。

この世界の片隅で

おばあちゃんが年越しそばを打っていた納屋は、暗くてホコリっぽい匂いがして、奥の暗闇に何かが住んでいるような気配がした。

僕が生まれるずっと前に母屋として使われていた建物で、年末年始に祖父母の家に預けられてた僕は、おばあちゃんが手際よく蕎麦を打つのをよくそこで眺めていた。

昔は「除夜の鐘を聴くまで寝ない」なんてがんばっては気づくと朝になってたけど、
最近は家族で飲んで夜更かしして、姪っ子・甥っ子の階下をはしゃぎまわる声に起こされるようになった。

***

『この世界の片隅に』という、こうの史代原作の映画が良くてついつい二回観てしまいました。

呉に嫁いだ女の子が主人公のアニメ映画で、昭和10年代の市井の人々が生き生きと、柔らかな筆致で描かれる。

『野火』や『火垂るの墓』と同じ時代の話だけど、描かれるのは戦争そのものではなく、戦争の続く時代の呉に生きる主人公すずとその居場所。

特殊な社会状況に飲み込まれていくすず自身の生活が、終始彼女の視点で描かれます。

主人公のすずは、うちのばあちゃんと同い年で、
舞台の呉は、海軍にいたじーちゃんが20代初頭を過ごした町だ。

じーちゃんは駆逐艦に乗って、連合軍の九州上陸を防ぐべく瀬戸内海で訓練して、あと十数日で出航というときに、広島に原爆が落ちて終戦。きのこ雲もよく見えたそうな。

原作どおりの柔らかい絵で描かれるこの呉の町で、すずさんとうちのじーちゃんはすれ違っていたかもしれない。この時代に、この世界の片隅に、たしかに彼らは生きていた。

幸運なことに、僕は自分の20代を好きなもののために使うことができています。
2010年代は、20代を過ごすのにもってこいの、めちゃくちゃ面白い時代だ、とも思う。

経済成長も人口増加も望めないこの国で、今後世界が必要とするであろう幸せのあり方を、僕らは一番に模索することができる。

***

さて、年末ですね。
今は1940年代でもなければ、幼少の僕がばーちゃんの蕎麦を打つ音を聞いて過ごした1990年代でもないけど、
僕らはやっぱりこの世界の片隅で、今・ここを生きてる。

そんな風に思うと、来年もとっても良い年になりそうな気がしてきます。
来年もみなさまにとってステキな一年になりますように。

知ること――検索することと経験すること

あのとき僕は26歳になろうとしていて、
1年間を振り返りながら、今年の目標を考えてた。

麻布十番の小さな会社で編集の仕事をしていて、
良いコンテンツを集めてお金をとってこれる編集者になるのが目標だった。

そんな冒頭で始まるコラムを、10年後、36歳の僕が書いてるかもしれない。

今年のコンセプトは、「海を見たいと思ったら、這ってでも見に行く」です。26歳になります。

***

この間、深夜の高尾山に登った。

東京に住んでる僕たちは、いつでも23時台の終電で高尾山にいって、月明かりのなか山道を登って、朝日が東京や横浜の街を包み込んでいくのを眺めることができる。
知らないか、忘れているか、しない選択をしているかだ。

「高尾山からの東京の朝日」が気になったとき、僕らはきっとスマホで調べるだろう。ものぐさな僕はついそれで知った気になっちゃうけど、大事なのは誰かの経験や誰かが撮った写真ではなく、自分がそこに行って何を感じたかだ。

だから今年の目標は、「海を見たいと思ったら、這ってでも見に行く」です。そこで感じるのが、なんだたいしたことないじゃんでも、べつに見たいわけじゃなかったでもいい。

4月から大学院を休学して働いています。「自動運転」を切り口に、社会や制度を論じる専門誌を作ってます。

月明かりの高尾山を登るのは大変だったし、山頂はめちゃくちゃ寒かったけど、東京が朝日に染まるのは本当に綺麗でした。

今そう思っているように、
26歳のときしてた仕事はめちゃくちゃ大変だったけど、あそこでした経験は本当に貴重だったと、
そんなことが10年後に言えたらいいな。

今年もよろしくお願いします。

歳を重ねるために

そのとき僕は16歳で、毎日パンクロックばかり聞いていた。
授業中にマンガを読んで没収されたり、予備校をサボってカラオケに行ったり、
おおむね真面目な高校生だったと思う。
カッコイイとは、バカなことが「上手く」やれることで、
悪目立ちしない範囲で誰もやらないことをしたり、中の下の成績をキープしながらサボったり、面白いものを友だちに広めたりすることだった。

ブッチャーズが言うように、歳を取れば作るものは色褪せると思っていたし、
ハイスタが言うみたいに、いつか僕も自分の心の声が聞こえなくなるんじゃないかと思ってた。
大人たちは心を捨てろ捨てろというが俺は嫌なのさ、
尾崎豊風に言えばそういうことだった。
10年後には、自分も尾崎豊が死んだ歳になって、
再結成したハイスタが新曲を出して、ベイスターズがCSに出て、
ボブディランがノーベル賞を取るだなんて、16歳のころ想像ついただろうか。
あのとき知らなかったことは、世の中には、とても人間らしく魅力的に、誰かを喜ばせたり、何かを守ったりしている大人がいるということ。
責任を持って働くのは楽しいし、やりがいのあることだということ。
あのとき僕らが今より優れていたのは、
恥ずかしげも衒いもなく、
未来や人生や、幸福や愛や運命について語り合えたこと。
昨日読んだ漫画について話すような気軽さで。

***

社会人4年目の世代になって、仕事や研究で病んだり通院したりしている友だちが、そろそろ両手で数えられなくなる。
当時の僕らは「大人になるって、どんなことなの?」という問いかけをしながら、
「生きるってどういうことなの?」について話し合うことができた。
「大人になったらなりたくない姿になっちゃうんじゃないか」っていう強迫観念に、ケツを蹴り上げられながら過ごしてたあの日々は、あながち間違っちゃいなかったんじゃないか。
もっと気楽に、普段から、人間とはなんで、働くとはなんなのか、問いかけてみてもいいんじゃないの?
答えなんて見えないけど、ボブディラン風に言えば、
風に吹かれて舞ってるかもしれない。

6歳の僕がみた世界は

そのとき僕は6歳で、ポケモンのアニメについて話しながら友だちと通学路を歩いていた。背中には自分の胴体と同じくらい大きなランドセルがあって、歩くたびに筆箱がカタカタと音を立てた。
街路樹は赤くなった葉を落とし始めていて、僕たちは落ち葉を蹴り上げながら歩いた。

その朝、どうしてか覚えていないけど、僕は「家でポケモンを飼っている」と友だちに嘘をついて、
「なーんてニャ」ととぼけるヒマもなく、クラス中のみんなが「須田の家はポケモンを飼っているらしい」という噂をしていた。

ちょっと見栄を張ったつもりで言ったことが、ずいぶん大げさな話になっていて、
今さら訂正もできなかった僕に、友だちが「お前家にポケモンいるとか嘘じゃん」と言った。

「嘘」という言葉は、今とは比べ物にならない重さで僕を打ちのめして、6歳の僕は人格を否定されたように感じたのだった。

僕はその友だちと喧嘩をして、「もう絶交だ」というような宣言をした。同じマンションに住んでるから、当然よく見かけるのだけど、口をきくことがないまま1週間がたった。

ある日、僕が学校から帰ると、家の鍵が開かなくなっていた。というより、鍵は開けたはずなのにどんなに引っ張っても扉が開かないのだ。

奇しくもそれはポケモンの放送日、つまり木曜の夕方だった。
インターホンを押しても誰も出ない。僕は家の前で途方に暮れながら、マンションの階段に座って沈んでいく夕日を見ていた。

高台のマンションからは、厚木の米軍基地や、まっ赤な空にうかびあがる丹沢山地のシルエットが見える。
どこかからカレーの匂いがした。お腹が空いてる感じと、寂しいという気持ちはとても似ているんだと知った。

ふと、その日ポケモンを見ないと、友だちと仲直りできないような気がした。
小さな町、通っている学校、いつも遊ぶ公園やスーパー。
それが僕たちの全てで、
自分の居場所は作るものでも見つけるものでもなく、自然とそこにあるものだった。

友だちと喧嘩して居場所がなくなったときにどうすればいいかなんて、6歳の僕には、とうてい分からなかった。

声をかけられて振り向くと、隣の家のおばあさんがいた。
おばあさんは僕を家に招き入れて、美味しいせんべいを出してくれた。僕がポケモンを観たいというと、テレビをつけてポケモンを観せてくれた。

あのとき、主人公のサトシは4歳も年上で、
ポケモンや周りの人と助けあいながら困難に打ち勝つのを、僕はとても頼もしく思った。

かっこよさとは、「誰かと仲良くできて、間違えたら謝れること」だった。
僕はそのときのサトシをみて、自分もこうありたいと思った。だからこそ、明日は友だちに言おう。ヤケになってごめん、嘘を付いてごめんと。

あの頃の僕には、あの小さな町が全てで、
一人ぼっちで階段に腰かけてるだけでもさびしいのに、
サトシのように知らない町へ行くなんてとうていできなかった。

ポケモンを見終わったころ、母親が迎えに来てくれた。
家のドアが開かなかったのは、換気扇の風圧のせいだった。

「大人になるって、どんなことなの?」
母親にそんなことを聞いた気がする。
僕もアニメの主人公のように、大きくなったらこの町を出るんだろうか。

家に帰ると、夕飯はカレーだった。
階段で嗅いだカレーの匂いは、うちの家の夕飯だった。

映画のようには終わらない−−福島第一原発へ

いわき駅、午後8時16分。
最終品川行きの特急がホームを駆け抜けるのを、息を切らしながら見送った。

家まで帰るための最終列車がみるみる小さくなるのを見ながら、
まだ8時台なのに十分酔っ払った僕の口角は、主人の意思とは無関係に上がって笑みを作っている。

さっきいたお店で席を立ちながら流し込んだ福島の地酒が、お腹の中でカッカと燃えていて、
終電の去ったホームで立ち尽くしながら僕は、『もののけ姫』のアシタカのセリフを思い出していた。
「わたしは自分でここへ来た。自分の足でここを出て行く」

といっても僕を連れて返ってくれるはずの終電は、アシタカの乗るヤックルのように戻ってきてはくれないのだけど。

***

知らない町に滞在するとき、僕はいつも「もう一度この町に来たとき絶対入りたいと思えるお店を探す」というのを自分に課している。

これは中学二年生のときに始めてした一人旅のときから、国内でも海外でも決して破らない不文律だ。

伊豆大島、京都、富良野、チェンマイ、会津若松、ヤンゴン、松山、ダバオ、尾道、メキシコシティ、、、数えきれないほどの町に、たしかに行けば思い出す店がある。(まだ潰れていなければだけど)
終電までの間、いわき駅に近い小料理屋におじゃまして、美味しいごはんをパクパク食べた。気さくなお母さんは、原発廃炉で好景気だという町の様子や、春から漬け込んでいたウドやタケノコの話をしてくれた。

「初夏は毎週、山菜採りに行くんだけどね。汚染されてないか心配だから、それをお客さんに出すにはすごく大変なのよ」

今回、科学研究費助成事業としてやってる調査に同行する形で、福島第一原発の中に入らしてもらった。

爆発したガレキを遠隔操作の重機で撤去した原発建屋、ちりが舞って放射線量が上がらないようにモルタルで固めた道路や崖、靴に付けるビニール袋や支給された白い手袋。

印象的だったものはいろいろあったけど、僕が一番揺さぶられたのは、爆発した原発建屋を見終わったあと、発電所の出口に向かう道で見た景色の美しさだった。

視界を覆って延々と続く汚染水のタンクと、頭上を走り回る配電線、そしてその向こうに広がる阿武隈高地の山々と、それを超えて広がるどこまでも青い空。

僕は今日ほど、空の青さを美しいと思ったことはなかった。

変なことかもしれないけど、本当にそのとき、僕は死ぬほど空が青いことに心から揺さぶられたんだ。

***

原発の様子は、写真が東京電力のOKを経て手元にきたら詳しく語るかもしれない。

爆発した原発建屋は思っていたより大きかったし、無人の重機や氷土壁などいろいろな工夫でなんとかしようとしている建設・メーカー各社は本当にすごいと思う。

福島第一原発に向かうバスの中で、帰還困難区域を抜けながら思い出していたのは、『もののけ姫』の冒頭で主人公アシタカが言われる
「曇りなき眼で見定めよ」という言葉。

壁が落ちたままのゲームセンターや、汚染された土を入れたフレコンパックの山を見ながら、先入観を廃して世界を見ることの難しさを感じた。
どんなにニュートラルに見ようとしても、湧き上がるのはやっぱり怒りだった。

福島はメシも酒も本当に旨いし、これからも遊びに来るだろう。震災後、両手で数えられるくらいしか来てない僕でも分かるのは、
福島の復興プロセスはまだぜんぜん終わっていないということだ。

原発の電力に頼っていた加害者でもあり、不安な日々を送った被害者でもある僕らは、
今後の展望を本当に「曇りなき眼で」見定めなきゃいけない。

「共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
アシタカだったら去り際にそうキメるところなのだけど、

僕はまずこの、とりあえず乗った常磐線で、どこまで帰れるか調べるところから始めなきゃいけない。

上野あたりまでヤックルが迎えに来てくれたら良いんだけど。

夏の終わりに思い出すこと

何かをしなくて後悔した事はあまりないけど、もっとこれをしておけばよかったと後悔することがある。横浜西口から歩いて10分ぐらいのところにyouという喫茶店があった。

初老のマスターがおいしいハンバーグやナポリタンを作ってくれるお店だ。横浜の駿台予備校で浪人生活を送っていた僕は、昼過ぎに授業が終わる毎週水曜日や夏期講習の帰り、必ずタバコ臭いその喫茶店に入ってコーヒーを一杯頼んだ。

1時間でその日の復習を済ませて、ジャンプやマガジンなどの少年誌を一通り読んだ。

喫茶店には週刊誌の他にも、漫画の単行本がたくさん並んでいて、昼休みのサラリーマンが眠そうな顔で読んでるような成人コミックがたくさんあった。
当時の僕には、コーヒー一杯の値段もそんなに安くはなかったから毎日そこに行くことはできなかったけど、そこで過ごす時間は家族以外誰とも話さなった浪人生活を、優しくかつ鮮やかに彩ってくれた。

おいしいコーヒーを入れてくれたそのマスターが亡くなったのを知ったのは、浪人を終えて丸一年が経った大学1年の冬だった。他の方が引き継いで、その店はしばらく続いたけど、少しして結局閉まってしまった。マスターは亡くなる直前まで、カウンターに立っていたという。

僕はそこにあった本やコミックを全て読みきることができなかったし、週刊の少年誌を読むこともいつの間にかなくなってしまった。

そこで読んだ漫画は、今では僕の骨肉となっているけど、もっとお店に行ってマスターと漫画や料理の話をもっと話しておくべきだったと、今になって少し思う。

高校のときの予備校友達と久しぶりに会った帰り道、夏期講習帰りらしき受験生とすれ違ってそんなことを思い出した。

もう夏も終わりですね。

マサラタウンにサヨナラしてからどれだけの時間たっただろう

初めて買ってもらったゲームはポケモンのピカチュウ版で、一日1時間しか遊ばないことが条件でした。
最初の1週間、僕はセーブの仕方が分からなくて、笑っちゃうんだけど毎回初めからプレイし直してた。

1時間ではどうしてもトキワの森が抜けられず、ゲームボーイカラーは毎日、涙と鼻水でグチョグチョになった。

両親はそんな僕を困った顔で見ていたけど、涙が出てくるのは先に進めなくて悔しいからでも、もっと遊びたいからでもなく、
僕が泣いている理由を両親が分かってくれないような気がしたからだ。

中沢新一が1997年のエッセイで面白いことを言っています。

未知の生き物に触れられる田んぼや森が身近にない現代の子どもたちにとって、
ポケモンこそが、知らないものを分類して理解する手法を学ぶ場なのだと。

彼はポケモンを、生命から湧き出てくる衝動や感情になぞらえて、
モンスターたちを図鑑に登録していくことが、人の内なる衝動を「嫉妬」や「不安」、「喜び」や「孤独」というものに分類して手懐ける練習なのだと言っている。

当時の僕は、毎日トキワの森で迷子になりながら、どうしてこんなに涙が出てくるのか分からなかった。自分の感情を分類することができなければ、当然それを理解することなんてできない。

***

この間、友達の家でアニメポケモンのエンディングを歌いました。
初めの「ひゃくごじゅういち」に始まって、僕が覚えていたのは11曲。4〜5年間ほぼ毎週見続けたことになる。

アニメ版ポケモンは未知のモンスターを分類して理解するだけの話じゃない。
サトシとピカチュウの冒険の旅が僕たちに教えてくれたのは、未知のものと友達になって、同じ目標のために共に頑張ることだ。

中沢新一風に言えば、衝動や感情を、分類して理解するだけでなく、その感情を自分のものとして受け入れて、別の目標のために昇華していくことだろう。

「ひゃくごじゅういちのよろこび、ひゃくごじゅういちのゆめ」

僕たちは今まで、色んな感情に出会って、それをなんとか自分のものとして受け入れてきた。

強い衝動やマイナスの感情が押し寄せたときも、「ああこれはあのときの感情に似てる」と分類できれば泣き出さずに済む。
それは過去に、そのポケモンを捕まえたことがあるからだ。

心のどこかからいつでも湧き上がり、上手く扱えずに戸惑った少年時代の感情は、いつの間にか僕らを悩まさなくなっている。

「さようならバタフリー!」「弱いリザードンなんていらない!」サトシがポケモンとの別れをかみしめながら旅を続けていったように、僕たちは既知になった衝動に別れを告げて、感情の起伏の少ない理性的な大人になっていく。

まるで、赤緑版ゲームの冒頭で主人公が観ていた、『スタンド・バイ・ミー』の映画みたいに。

***

サトシが「マサラタウンにサヨナラしてから」もうすぐ20年。

子供の頃のように分類不能の感情が押し寄せて涙があふれるようなことは、僕も今ではなくなって、
衝動を集めたポケモン図鑑も完成に近づいている。

それでもときには図鑑にないような感情が押し寄せることがあって、
今まで言葉で分類したことのない未知のそれを前にして、僕は立ちすくむのだ。ちょうど今日みたいな雨上がりの夜とか。

霧の中にそいつの鋭い眼光を感じながら、僕は恐る恐るモンスターボールを投げる。
なんとかしてそいつを把握して、言語化してやるんだ。

いつでもいつも上手くいくなんて、保証はどこにもないけど。