初めて買ってもらったゲームはポケモンのピカチュウ版で、一日1時間しか遊ばないことが条件でした。
最初の1週間、僕はセーブの仕方が分からなくて、笑っちゃうんだけど毎回初めからプレイし直してた。
1時間ではどうしてもトキワの森が抜けられず、ゲームボーイカラーは毎日、涙と鼻水でグチョグチョになった。
両親はそんな僕を困った顔で見ていたけど、涙が出てくるのは先に進めなくて悔しいからでも、もっと遊びたいからでもなく、
僕が泣いている理由を両親が分かってくれないような気がしたからだ。
中沢新一が1997年のエッセイで面白いことを言っています。
未知の生き物に触れられる田んぼや森が身近にない現代の子どもたちにとって、
ポケモンこそが、知らないものを分類して理解する手法を学ぶ場なのだと。
彼はポケモンを、生命から湧き出てくる衝動や感情になぞらえて、
モンスターたちを図鑑に登録していくことが、人の内なる衝動を「嫉妬」や「不安」、「喜び」や「孤独」というものに分類して手懐ける練習なのだと言っている。
当時の僕は、毎日トキワの森で迷子になりながら、どうしてこんなに涙が出てくるのか分からなかった。自分の感情を分類することができなければ、当然それを理解することなんてできない。
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この間、友達の家でアニメポケモンのエンディングを歌いました。
初めの「ひゃくごじゅういち」に始まって、僕が覚えていたのは11曲。4〜5年間ほぼ毎週見続けたことになる。
アニメ版ポケモンは未知のモンスターを分類して理解するだけの話じゃない。
サトシとピカチュウの冒険の旅が僕たちに教えてくれたのは、未知のものと友達になって、同じ目標のために共に頑張ることだ。
中沢新一風に言えば、衝動や感情を、分類して理解するだけでなく、その感情を自分のものとして受け入れて、別の目標のために昇華していくことだろう。
「ひゃくごじゅういちのよろこび、ひゃくごじゅういちのゆめ」
僕たちは今まで、色んな感情に出会って、それをなんとか自分のものとして受け入れてきた。
強い衝動やマイナスの感情が押し寄せたときも、「ああこれはあのときの感情に似てる」と分類できれば泣き出さずに済む。
それは過去に、そのポケモンを捕まえたことがあるからだ。
心のどこかからいつでも湧き上がり、上手く扱えずに戸惑った少年時代の感情は、いつの間にか僕らを悩まさなくなっている。
「さようならバタフリー!」「弱いリザードンなんていらない!」サトシがポケモンとの別れをかみしめながら旅を続けていったように、僕たちは既知になった衝動に別れを告げて、感情の起伏の少ない理性的な大人になっていく。
まるで、赤緑版ゲームの冒頭で主人公が観ていた、『スタンド・バイ・ミー』の映画みたいに。
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サトシが「マサラタウンにサヨナラしてから」もうすぐ20年。
子供の頃のように分類不能の感情が押し寄せて涙があふれるようなことは、僕も今ではなくなって、
衝動を集めたポケモン図鑑も完成に近づいている。
それでもときには図鑑にないような感情が押し寄せることがあって、
今まで言葉で分類したことのない未知のそれを前にして、僕は立ちすくむのだ。ちょうど今日みたいな雨上がりの夜とか。
霧の中にそいつの鋭い眼光を感じながら、僕は恐る恐るモンスターボールを投げる。
なんとかしてそいつを把握して、言語化してやるんだ。
いつでもいつも上手くいくなんて、保証はどこにもないけど。