濱口竜介『PASSION』:好きでこんな人間なわけじゃない

家に帰って、霧雨にさらされる憐れな洗濯物を部屋に入れて、
ソファーに横になって雑多な感想が頭をよぎるままに時計の針の音をきいて、
いてもたってもいられなくなって、雨の中コンビニまで走ってビールを買った。

濱口竜介監督の『PASSION』を観ました。5人の主人公がどれも自分自身のようで、僕は余計に自分がわからなくなりました、
という高校生のようなナイーブな感想しか書き得ない、夜明けの海や真冬の星空のような有無を言わさぬ厳しさがあった。

映像の美しさとか役者の演技とか登場人物のリアリティとか、そういう素晴らしさはもうどうでもよくなってしまって(もちろんそれらも点数が付けられないほど良い)、何を語ろうとしても飲み会のグチ以下の感想しか出てこない。僕が見ている現実に、言葉を強制的に与えてくる。

もっと違う何かだったはずなのに、僕の周りにある全てが、この映画で描かれているものの中に回収されてしまう。暴力的な概念化。

あの人はもう「こういう女性」にしか見えないし、この友達は「こういう男性」にしか見えない。自分も登場人物の一人が象徴する「こういう男性」でしかいられなくなってしまう。
この映画が世界を切り取る視線が、そっくりそのまま僕が目の前の現実を解釈する枠組みになる。その押し付けられ方がとても暴力的で(それはたぶん映画の良さだけでなく、僕の問題でもある)途中で見るのがすごく嫌だったし、見終わって何も言葉が出なかった。

感情的に感想を述べるとそういうことになるのだけど、シャワーを浴びてビールをグラスに注ぎながら思い返すと、とても良い映画だった。「二度と観たくないけど今まで出会ったなかで一番の映画」かもしれない。

理性とか感情とか、(劇中で繰り返される)「本心」とか、そんなものを持ち合わせるカタマリとしての主体を、人間一人一人が持っているなんて幻想で、
僕たち人間はただ、状況の強制性のなかで発話したり行動したりする、ひどく無力な存在でしかない。

その強制性のなかにあって僕らは、映画の中盤で登場人物が互いに罵り合うように、本質的に「空っぽ」なのだ。

二度目はもっと客観的に、登場人物の滑稽さを楽しめるかもしれない。鑑賞中は早く終わって欲しいと思ったし、観終わった直後は二度と観たくないと思ったけど、この映画はどうしても、もう一度観ずにはいられない。