移りゆくヤンゴンで変わらないもの

現在の気温は33度。天気はところにより曇り

ヤンゴンのゲストハウスで、モヤモヤした気持ちを持て余している。昼は暑すぎてなにもできない。相部屋の住人たちは、所在なげに本を読んでいる。

3日間一緒に過ごした東大の学生たちが日本に帰っていった。通い慣れたヤンゴンに日本の学生たちと一緒にいるのは、なんだか不思議な気分で、自分が日本の大学生なのかヤンゴンの活動家なのか、はたまたそのどちらでもないのかよくわからなくなった。

民主化が進む中で、ヤンゴンの友人たちは反政府の色彩を弱め、各々の道を歩き始めている。
反政府学生運動を組織していた活動家たちは、大学生や高校生向けの私塾を経営したり、出版社を立ち上げたりと精力的に活動している。

ヤンゴンはみるみるうちに変わっていく。共産主義時代に建てられた古い建物が壊され(廃墟マニアとしては遺憾に堪えない)周りを見渡せば建設中の工事現場だらけだ。
街は渋滞だらけだし、露天では数種類の新聞が並んでいる。3年前の物流統制・情報規制の時代には考えられない状況だ。

大学生たちはビール片手に政治を論じ、国政かくあるべきと口角に泡を飛ばす。
反政府の活動家として学生運動を率いていた友達は、どうやらこの年末に所帯を固めるらしい。エリートの道を降りて反政府運動に従事していた彼らの、アウトローな青春時代が終わろうとしている。

彼らの青春とともに、ビルマの反政府運動の歴史も終わっていくのだろう。学生連盟のオフィスにある、全ビルマ学生民主戦線の軍服も、もはや象徴的な飾りでしかない。

この3日間、得体のしれないモヤモヤした気持ちに悩まされてきた。よく知っているつもりだったヤンゴンがどんどん変わっていき、活動家の友人たちの表情は年毎に厳しさを失っていく。彼らの笑顔に垣間見えた危うさや儚さ、理想主義的な行動規範が見えなくなっていく。自分がこの街やこの街の友人たちに、なぜ惹かれていたのか少しずつわからなくなっていた。

3年前から定期的にビルマに通いながら僕が見てきたものは、一つの時代が終わっていく様だったのだと思う。まるで一つの映画を見ているようだった。
もちろんミャンマーは未だに問題が山積みだし、変えなくてはならないものも多い。でもそれを変えるための活動が、反政府運動という形をとることは(民族問題を除けば)もうないだろう。
友人として受け入れてくれたヤンゴンの活動家たちが、先代から引き継ぎ守ってきた反政府運動の歴史が、いま終わろうとしている。彼らは形を変えて活動を続けるだろうけど、それは今までのものと本質的に異なっている。

この3年間、彼らの現状を追いかけているのは、まるでひとつの映画を見ているようだった。反政府学生運動と、その活動家たちの青春。彼らのストーリーにささやかながら参加させてもらえるという幸運を存分に味わうことができた。

そこまで考えて、自分の感傷が彼らにとってとても失礼なものだったことに気がついた。今感じているモヤモヤは、良い映画を見ていると感じる「このまま映画が終わらなければいいのに」という曖昧な感傷のようなものだろう。登場人物ではなく、無責任な観客だからこそ感じる、自己中心的な感慨だ。

彼らの物語は終わってなんかいない。反政府運動という形を取らなくなっても、社会を良くしたいという彼らのアクションは続くのだ。

今日は一番仲良くしている活動家グループと飲む。こんなモヤモヤした気持ちはさっさと忘れて、彼らと将来を語り合おう。時代が変わろうとも決して変わらないものを味わいつつ、理想主義を肴に今日もうまい酒を飲む。

話したいことがたくさんあるのだ。